おもしろうないわ
8月16日。お盆で実家に帰省した私は、ひどい気分で朝を迎えた。確かに毎晩酒盛りをしているけれど、これは二日酔なんかじゃない。夜中にしつこく絡まれたせいだ。喉に残るひりつきが厭でもそれを思い出させる。
遡ること5時間ほど前の午前2時過ぎ、酒のあとの乾きで目覚めた私は水を飲みに起きた。一度寝たからか頭が冴え、布団に戻ってもすぐには寝付そうにない。ただそれは意識だけのようで、体はあちこちのスイッチを勝手に切ってゆく。
それでもやがては眠気が顔を出し意識にふんわり紗をかけると、私は覚醒と眠りの狭間を漂いはじめる。変性意識で興味深い体験が出来るスペシャルタイムだ。けれどもいささか時期が悪かった。私はすっかり油断をしていたらしい。
ぬーっと、それが部屋に入ってくた。
その存在のバイブレーションが伝わってくる。
「あ、これは⋯⋯」心地よく無いモノ、そう経験から学んでいる私は即座に警戒モードになると、空気の流れさえ見逃さないような緊張感を肌に纏う。やつは来るのか来ないのか、息を殺して気配を探るのだった。
*
入眠直前の変性意識に入ると、得体の知れないものに絡まれては難儀をする。幼い頃から私はそうゆう事態によく直面してきた。ただまともに相手をしてたら小さな体が持たない。だから逃げる、逃げられるものなら極力逃げる。でも意識の変性が深くて体が動かせないならもうアウトだし、まだ浅ければ最悪の事態からは逃れられる。といっても全ては布団の上でのお話しだ。
変性意識の継続は、肉体のリラックスが続くか刺激を受けるか、これに左右される。幼いころに気が付いた変性状態からの脱出方法は単純に「寝返り」で、逃げ込むべき安全地帯は「横寝」と「うつぶせ寝」の体勢だった。これらは仰向けに比べて体への刺激が格段に多くリラックスしにくい。ただし体の自由が利くうちにやらねばならなず、もし遅ければ後は「まな板の鯉」となるしかない。
そんな子供時代の私に最悪をもたらす相手は、意外にも幽霊ではなかった。それは得体の知れない白いヤツだ。それが暗闇の向こうにふいっと現れたらまず逃げられない。体に入り込まれたら頭の中が真っ白になり、明るくて眩しくてそれはそれは恐ろしいのだ。
ときどきそれが背骨を下りてきて、これがいちばんの苦痛だった。ビリビリと強すぎて体がこわばり仰け反るのをなんとか耐えるのだが、今にも壊れてしまいそうで怖くなる。たまにそいつが体に入りたがらないとき、私はどこかに連れてゆかれた。入り込まれても迎えにこられても、変性意識でのその遭遇はどちらもすこぶる恐怖でしかない。
だからそうならないために、逃げきる可能性を少しでも残すために、変性意識に不必要に留まらないために、私は仰向けでは寝ない、寝られない子供になっていた。その矯正は思春期になってからで、修学旅行に向けてのものだった。
*
さて、得体の知れない存在がぬーっと部屋に入って来たのは壁ではなく、律儀にも入り口用の襖からだ。そしてそこは布団で寝ている私の足元の少し先になる。その存在、入ったはいいがこちらを伺うばかりである。これはしめた、知らんぷりをすれば立ち去るかもしれない。だけど気付いてると気取られたら喜んでこっちに来る。「たのむ、来んといて」そう願ってしばらく息を潜めてはいたが⋯⋯
ぬぬぬぬーっ!と、突然近寄ってきた。それどころか次の瞬間もう脛の辺りまで、ずっしりとした重みが這い上がっている。
「ああーっ!」
堪らず体を跳ね上げで叫んでしまった。予想外の動きと速さにゾッとする。幽霊にしてはすばしっこい⋯⋯。そう、招かれざる客はじつにお盆らしく、やはり幽霊だった。
幸い目覚めていれば何も感じない体質なのだから、変性意識から抜け出せばなんとかなる。だから私は乗っかられた恐怖で叫んだのと同時に、体をぐいっと捻って揺すり、咄嗟に肉体に刺激を加える。体に刻まれた条件反射だ。でも刺激は足りず、みるみる体は弛緩して変性意識へ引き戻される。するといったん脛から降りていたその存在が、今度は上体の右側から寄りかかってくっついて来た。
「ひーっ!」
べったり来られて、情けなくもまた叫んでしまうのは、最初に受けた一撃が効いていたからだ。人の幽霊らしくない予測のつかない動きをされるのが、私はすこぶる苦手で怖いのだ。
……叫ぶのと同時に体を捻って揺すって刺激を加え変性状態からの離脱をはかる。
それで一時は回避するも直ぐに体が弛緩して再び変性意識に戻る。
すかさず幽霊がくっついてきて私はまた叫ぶ。叫ぶのと同時に体を捻って……
このループを何度も何度も繰り返す。私の喉は掠れ、悲鳴はもはや空気の抜ける音でしかない。しかしなぜ飽きないのだ? この存在は。
余りにもしつこすぎる……。
私も馬鹿だった。体を揺すってもそんなのは一時の刺激でしかなく、根本的に体が弛緩し易い仰向け寝が駄目なのだ。遅まきながらやっとでそれに気付いた私は「これでどうや」と仰向けからの寝返りをうつ。続けて安全地帯の横寝の体勢に逃げ込み、ようやく一息ついたのだった。
「ふぅ。これなら大丈ぶはっ」
ドゴッッ! という擬音が聞こえそうな衝撃に虚を衝かれ、一瞬なにが起きたのか理解出来なかった。左肩を上にして横寝をしている私の背中に、その存在は結構な勢いで体当たりをして来たのだった。体感的には完全に物理的な衝突である。
直後その存在は、甘えるように背中に寄りかかり重みをかけてくる。私の左の二の腕にぽんと手が置かれた。ふたつの小さな手だ。すると肩越しからぬぅっと顔が出てきて私を覗き込み
「おもしろいねっ!」
って……、それはそれはハッキリと無邪気に楽しそうに言ったのだ。子供だった。3歳か4歳くらいの女の子だ。
「うをわあああ────っ!」
驚いた私は叫びながら手足をばたつかせた。立ち去って欲しかった。近づかないで欲しかった。もう触れないで欲しかった。防御策も効かないし、やっとで逃げ込んだ安全地帯でも体当たりを食らってしまった。
子供とか……、そりゃないよ。
どうしたらいいんだよ。
気持ちがぐしゃぐしゃしてて整理できない。確かなのは、まるっとひっくるめて腹が立ったということだ。
ああああああ、クソっ!
心で悪態をつきながら、私はバッっと飛び起き
「おもしろうないわ!」
でかい声ではっきりそう言い放った。
目を開けて見据える先にはなにも映らないが、そこに居るのは明らかだ。だから私は「はぁ……」とひとつ溜め息をついて「しょうがない……」と覚悟を決めた。
もがいて蹴散らした夏掛け布団をそのまま脇に押し出して、広くなった敷き布団の上に寝転んだ。仰向けに大の字で、バタン! と。これでよし。
私はその子と、その子のハイアーセルフに静かに語りかける。
「いいよ」
あなた達を受け入れます
「なにもしてあげられないけど」
ただし今回だけです
「おはなしはいいよ」
それでもいいなら
「おいで」
接近を認めます
憑依が必要ならそれも許可します
最後にそう添えることも決めていた。
憑依が必要なら許可します──なんて、もし霊能者の方に聞かれたら絶対怒られるだろうな。もちろん私だってそんなことはしたくないし、その危険性も理解しているつもりだ。でもけっして軽率に取った行動ではない。ただ今回は経験上そうしても大丈夫だと感じたのと、そうするべきだとの直感があってのことだ。それに何より、この子を放ってはおけなかったから。
体を弛緩させ呼吸を鎮めてリラックスすると、私は静かに待った。それが起きれば間違いなく心地よくないのだが、その覚悟はできている。けれどもその子は近づてこない。私の足元の少し先になる、最初に現れた部屋の隅の襖の前でじっとしたままだ。さっきまでの元気ないたずらも、もうしてこない。戸惑ってるのかな? 私は気長に待つことにした。
そんな状態がしばらく続き、私は知らぬ間に眠っていたようだ。ドタバタして体力も精神力も酷く消耗していたので、この平安が眠気を誘うのも仕方がない。
けっきょくその後は何事もなく、気が付けば16日の朝を迎えていた。ただ爽やかさの欠片も無い目覚めだったのは冒頭のとおりである。
なにが起きてどうしてきたか
就寝時の変性意識下では幼い頃から、得体の知れないものに絡まれては難儀をしてきたと前に述べた。得体の知れないものとは、絡まれたときに苦しい体験になる相手のことだ。それはエネルギーや周波数が高かったり強すぎたりするものから、片や重くなり疲弊し気分が悪くなるものまでと幅がある。
そんな存在達のひとつが幽霊で、少しばかりの付き合いはあるけれど、私はいわゆる心霊現象には詳しくない。日常生活の意識状態ではなにも見えないし感じないからだ。絡まれたら心地悪いし厭だけど、幸いタチの悪い霊には縁がなかった。
身体に入るのを諦めないところは性悪かと思うが、用が済めばさっぱりしたもので、彼らはさっさと帰ってしまう。
私が嫌々ながら相手をすることになったとき、彼らは待ちかねたように語り始める。「とにかく聴いて欲しい」そんな強い思いが垣間見えるようで、だからあれほど食い下がって来たのだなと思い及ぶ。彼らが語るとき、突っ立ったままでとかはほとんどない。たいていは布団の脇までやって来て、枕元におもむろに座るのだった。そこはやはり日本人だなあと思ったりする。そうやって穏やかに話を聴くだけならまだいいのだ。
*
私の経験では体へ侵入する気満々の存在を、人型のディティールで認識したことはあまりない。たいていは形はなくとも一応は纏まりがある白いもので、大きさは人体よりもうんと小さい。
身体に入られる時の感触では、それは濃密で弾力のある泡のようでありながら、纏まりを保つ為の表面はつるんとしており水っぽさを帯びている、そんなふうに感じられた。喩えようにも弾力のある泡が身近に無かった頃は、滴るほど水をたっぷり吸った綿に、そのイメージを重ねていた。しかも少し想像しただけで「うえっ」っとくる程の嫌悪感と結びついて。
こうした存在は他の幽霊のように部屋の隅に佇んで様子を伺ったり、枕元にやって来ておもむろに座ってなどという、律儀な順序を経ることはない。空中に現れたらまるで本能のようになんの躊躇いもなく、または当然の権利であるかのように、私めがけてまっしぐらに飛び込んでくる。
これはあくまで私の場合だが。霊的存在が身体に入る現象の中で、自分が意図せず望まない状態でそれが起きるとき、つまりは強引に侵入されるとき、彼らは顔の前面、鼻の付け根辺りから入って来る。もっとも意図しない時とは就寝時の寝返りで仰向けになった時なので、自然と顔の前面になるのかもしれない。
対する、望んで迎え入れる時は椅子に腰掛けるなど体を起こして行うので、鼻の反対側になる首の少し上、いわゆる盆の窪辺りから入って来る。
不思議なもので幽霊たちは誰に教わったわけでもないだろうに、私の何処から入ればいいのかをちゃんと知っていて、迷うこと無く鼻の辺りを狙ってくる。彼らの行動を「本能のように」と言ったのはそれもあってのことだ。向こうの意図を察知している私は、侵入が始まりかけたところで(感覚でよくわかる)顔をそむけ身体を捻って揺らして邪魔をしながら、変性状態からも離脱を試みる。しかしこれくらいで諦める彼らではない。
ところで「メマトイ」(目纏:ハエ目ショウジョウバエ科)という虫をご存知だろうか? 追い払っても払っても人の顔に纏わり付いて飛び周り、隙さえあれば目に飛び込もうとする、黒くて小さな羽虫だ。人の霊を虫に喩えるのは気が引けるが、侵入せんとする霊体の行動はまさにメマトイ、言うなればハナマトイだろうか。
メマトイのごとく執拗に纏わり付く霊体は、僅かな隙を狙いつづける。やがて私は防衛線を突破され身体への侵入を嫌々許すことになる。水をたっぷり含んだ白い綿が鼻の辺りからつるんと入って来るようなあの感触は……あまり、いやかなり……気持ち悪い。できれば想像もしたくない。
*
幽霊が枕元で語るとき、その内容は彼らの人生のあらましや伝えたいエピソード、そこでの思い、人生を閉じるに至る最期の出来事などだ。ただし「語り」とは比喩に過ぎず、媒体となるのは言葉ではない。私の意識に滔々と流れ込んでくる理解や認識が物語るのだった。そこには結構な割合で映像も付随しており喩えるならばスライドショー、時には短いムービーなども見ながら解説を聴く(理解を得る)感じだろうか。
では彼らが身体に入り込んだ場合はどうなのか。基本的には同じだが、先程の喩えを使うならこちらはフルムービーだ。そればかりか物語の中に入り込み、まるで自分のことのようにそれらを眺めたり、思いや感情がダイレクトに伝わって来る。そんなふうに、語り手の伝えたいことを疑似追体験させられる傾向がある。ちなみにこれらは情報量が多く共感度合いも深い分、体力や精神力や感情など色んなものが磨り減ってしまう。
どんなかたちであれ、不本意ながら彼らの関わりを受け入れることになったとき、私は最初に必ずこう伝える。「これしかできないよ」と。その代わり彼らの話は誠実に受け止めた。それだけは守るようにしていた。
全てが終わったとき、中には「聴いてくれてありがとう」と礼を述べてから去る者もいた。でもたいては私が余韻や共感に浸っているうちに、ふっといなくなってしまう。別にそれはかまわない。
居残りさん
寝覚めの悪い朝を迎えた8月16日の午前、私は帰省先の実家でパソコンに向かっていた。未明の出来事を記すためにこの日は一日中、そして晩の酒盛りを挟んでのよる夜中まで作業を続けることになるだろう。左手側の窓に寄せて座卓を置けば、右手側に畳まれているのが私の布団、すると右後方が例の襖だ。昨夜、私が受け入れる覚悟を決めたあとも、あの子は入り口の襖の前に佇んでいた。もっとも私は寝落ちをしたから、いつまでいたのかは分らない。
そんな子を思い出しながらその子が主題の作業をすれば、やはり気配が満ちてくる。シュチエーション故の気のせいだよな? と最初は流していたけれど、だんだんと無視出来ないレベルになってきた。だが見えはしないのだ私には。
ただ右背後に確かに「チョロリ」と動く気配がある。私はその都度振り返る。でも振り返ると「ピタッ!」と止まるのだ。その濃い空気の塊は私に近づきながら、こんなふうに動く。
チョロリ、ピタリ、チョロリ、ピタリ
「ふふっ」
ついおかしくて笑ってしまったのは『だるまさんがころんだ』を思い浮かべたからだ。見えないから無理なんだけどね。でも怖かった空気が少し緩んだ気がした。
そういえば幽霊の居残りとは珍しい。いや、そもそも昨夜が異例ずくめだ、これとてさもありなん。それにあのプロセスも中途半端で終わっていた。だから「今日だけはいてもいいよ」なんて思えてしまう。いささか甘いだろうか。
チョロリ、チョロリと近寄って来て、今は右肩少し後ろ。私が何をしてるかわかるだろうか。変性意識でも何でもないから、はたして伝わるとも思えないが、それでも心の中で語りかけた。
「ゆうべのことを書いて、みんなに読んでもらうからね」
私がポチポチと作業してるさなか、その存在は私に近寄ったり離れたり、気が付いたらいなかったり、またふっと出てきたり。そんな感じで日が暮れた。
夜気が満ちてくると霊的な存在の気配はほんとうに濃くなるようだ。夜だから私が鋭敏になっただけ? それとも向こうが元気になった? よくわからないが、傍にいて相手の変化を観察するのは初めてだから興味深い。
それでもやはり私は日常に生きていて今夜も酒盛りである。家族に呼ばれて部屋を離れた。そうして飲んで食べてひと風呂浴びていい気分、お盆の帰省はこうでなくては。けれども今夜はまだまだ書かねばならず、部屋に戻ると窓から入る夜風で涼みつつ、私はまた執筆に精を出した。
時々休憩を挟んでは作業を続け気が付けばもう2時過ぎだった、と言うのは嘘で、時間はずっと気になっていた。背後の存在感が夜がふけるほどに増してきて、やばい見えたらどうしよ……、なんてびびっていたのだ。
さて、さすがに時間も時間である。私は作業を切りあげて寝ることにした。
もちろん思っている。やーだーなーって。
*
「はぁ……」
これは決めていたことだ、溜め息をついても仕方がない。私は布団を敷いて蛍光灯を消し常夜灯も敢えて消す。もともと点ける習慣もないけれど、これで……真っ暗闇だ。そしてそのまま布団に体を横たえて、これも敢えて仰向けになる。
「ふぅ──っ」と溜め息じゃない、踏ん切りをつける為の大きな息を一つ吐く。続けて体を弛緩させ、穏やかな呼吸へと意識を向けてゆく。準備はできた。
ここで語りかける。
「どうしたの? 話してみて」
同時に別のフレーズで、この子のハイアーセルフへも語りかけている。必要があるならばと、身体に入る許可もそこで出していた。そしてあとは待つだけ。それにしても変性意識はまだ浅いというのに、霊の存在がここまで浮き彫りになり、今にも事が始まろうとしている。またしても初めてのことに驚いてしまう。
その子は私の足元の少し向こう、襖の前に移動していた。やはりそこだね。そして私の語りかけが終わると、その子は即座に動き始めた。早い。瞬く間に布団まで、そして体にまで乗って来る。
昨夜はこの、速くて予測のつかなさが恐ろしくて震え上がったけれど、あれは子供らしい動きだったんだなと思い返す。あの飽きることを知らないしつこさも、小さな子供が遊ぶときにありがちなものだ。ああ、合点いった。理解が及べば怖くないから、ゆうべみたいに跳ねたり叫んだりはもうしない。だからあんまり、おもしろくないとおもうよ?
その子は私の脛から這い上がり膝を通り過ぎて、今は両腿に明確な重みと感触がある。つまりは私に馬乗りの状態だ。そしてそこでぴたりと動きが止まってしまった。身体に入るでもなく、かといって堰を切ったように語り始めることもない。
うーん……。
あ、そうか子供だもんな、状況もよくわかんないよな、言葉だってまだまだだし、戸惑っても当たり前か、と思い至る。これまでは大人の存在達の好き勝手を、受け入れるだけで事は済んでいたけれど、ここにいるのはちっちゃな子供なんだよね。
えっと、まずはそうだな
「なまえ、おしえてくれるかな?」
「…………」
だめか。まずはこちらが名乗るべきとか? うーむ、と考えているうちに
──するり
「あっ……」
その子は私から降りてしまった。
あー、逃げられちゃったか。やっぱ怖かったかな? 子供の相手は苦手じゃないんだけど、さすがに勝手が違って難しいな。それにやっぱり……へこむ。
──つつつっ
てっきりその子の定位置、襖の前へ戻ったと思ったらそうじゃなかった。私の布団の右横にきて、枕元にちょこんって⋯⋯座った。初めてだよね、そこに座ってくれたのって。話すの? 話してくれるの?
「…………」
しばらく待った。
そして、やはり無理かと諦めかけた時、
「えりぃ……」
しかし唐突な回答に驚いた私は、一瞬なにも返せずにいた。すると
「えり!」
はっきりと伝え直してくれた。
「えりちゃんか、うん、ありがとう」
私は慌ててお礼を返した。けれど
「…………」
彼女はまた黙りこくる。
振り返ればこの時、変性意識の中でしかも相手は幽霊だというのに、私はあたふたと気を遣っていた。したたかな大人の幽霊相手では経験し得ない状況だろう。
「なにかおはなし、あるかな?」
「…………」
「なんでもいいよ。してほしいこと──」そこで遮られた。
「ろーぷえ!」
「??」
聞き取れない。ではなくてこれは、理解ができないだけなのか。とにかく!
「えっと……ろ、ろー? ぷえ?」
いや、全然わからん!
「…………」
沈黙が入り何か考えているような、いないような……。
「ろーぷぅえー」
「あ! ロープウェイ?」
「うん! ろーぷぅえー」
ははっ、なんか嬉しい。
「それでなーに? どうしたの?」
続きを促した。
「…………」
こんどは長い長い沈黙だった。少し切迫した雰囲気も伝わってくる。もしかしたらそこで亡くなったのかな? でもそうならたいていは、状況の理解やそのシーンの映像が来るんだけど、何も入ってこない。それとも単純に楽しかったことかな?
「えりちゃん?」
「…………」
変わらずそこにはいるようだが、概ね予想どおりだ。もう……ここまでだろう。私は予め心に決めていた次の段階に移ることにした。
*
昨夜この子にひどく絡まれて、仕方なく受け入れることを決意した。でもこの子は戸惑ったようすで部屋の隅で動かなくなり、翌日もまだこの部屋にいた。これは一つの結果であり、これ以上何も出来なくてもそれは仕方の無いことなのだ。けれどもやはり乗りかかった船だから、立ち去ってもいないのだから、あと少しくらいはみてあげたい。
夜が明けて、部屋の中でチョロチョロする気配を感じながら私は考えた。この子は大人たちみたいに語って満足して立ち去るパターンではないだろう。おそらくその次の段階への援助が、子供だからこそ必要だろうと。もし語って立ち去るならばそれで良し。でもたぶんそれは無理だと思われた。
さて、黙り込んでしまったこの子の、高次の部分であるハイアーセルフに対し、これから光を送りますと心でつぶやき断りを入れる。ある結果を期待した具体的なことは言わない。何故なら本当に考えていないからだ。それは私がすることじゃない。私はただこの子にいま必要だと思う、光を届ける導管となるだけだ。ただし手法も手順も生きる人にするものと同じになる、というかそれしか知らない。
何かされるのを嫌ってか、ヒーリングの気配を察知してサッと私から離れ部屋のすみっこまで行ってしまった。でも問題はない、そもそも肉体の介在を必要としない手法のヒーリングしか今は出来ないのだから。つまり物質世界の距離の隔たりは関係ない。嫌がり逃げたこの子だけど、それでも部屋からは出て行かずに留まっている。そんな振る舞いに気付くと切なくなるが、今は気持ちを切換えてするべきことをせねばならない。
私はこの幼い存在にヒーリングをした。
嫌だったんだろうね。一番遠くなる部屋の隅にずっと立っていたのだから。でもヒーリングが終わるとまた私の傍までやって来て、なぜかそこで蹲った。ただでさえ小さいのに、さらに小さく丸まっている。どうしたのだろう?
その辺りからだ、変性意識下特有の視覚の働きが高まったのは。私の傍で蹲る存在が映像としてしっかりと見えてきた。ただそれは……もう、人の姿をしていなかった。多分時間はあまり残されていないだろう。
この子はいま光の球体としてそこにいた。バレーボールよりも少し小さいくらいの大きさで、印象的なのはその光が帯びる色。意外にも赤だ。とても透明感のある美しい赤の輝きだった。よく赤色の霊体は危ないとか言うけれど、私は自分のハートを信頼している。この子はそんなんじゃない。こんなにも私のハートが共鳴する美しい赤なのだから。
やがて光は小さくなりはじめ、ついには何もなくなった。私の意識もそこで一緒にプツリと切れた。
*
夜が明けて8月17日の午前、この出来事を記すべく私はキーを叩いている。あのときのあの子の言葉を聴けぬまま、私は信じたことを行った。それであの子がどうなったのかは知る由もない。確かなことは背後にあの子の気配はもう無いということ。その夜も、翌日からも。
そして少しだけ思うのだ、あれで良かったかな、と。
最初はあんなに嫌だったのに、おかしなものだ。
(2021-03-21 改題・改稿)